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まちサポくさつ (公財)草津市コミュニティ事業団

ゆっくり草津 街道物語

2.矢橋の道

矢橋港の目印「イチョウの木」

矢橋の渡し  あいにくの雨の日、傘を片手に出発した一行がまず訪れたのは、近江八景のひとつ「矢橋港跡(矢橋の帰帆)」です。現在のように車や鉄道が発達していなかったころには、大津方面へ向かう交通手段として、舟が重要な役割をしていました。そのころの面影は石積みの突堤と常夜灯だけになってしまい、いまは整備された公園です。
公園入り口には大きなイチョウの木があり、高さが23m、樹齢250年といわれる草津市の名木です。イチョウの幹には水分が多く、矢橋の宿の防火用に植えられたとのこと。当時から湖上の舟から目印になるほどの大木でした。

鞭崎八幡宮と十王堂

鞭崎神社  矢橋道を琵琶湖と反対方向に向かうと、十王堂跡があります。十王堂は近松門左衛門原作の「冥途の飛脚」のモデルになった遊女梅川の終焉の地です。現在は個人宅ですが、庭に梅の古木があり、梅川は忠兵衛亡き後、この梅の花を見てひっそりと50年余りを過ごしたのでしょうか。
 十王堂跡の向かいには、うっそうと茂る森に囲まれた鞭崎八幡宮があります。675年に創建したこの神社は、源頼朝が京都に上洛する途中、馬上から鞭で指し、祭神を聞いたというのが名の由来です。鞭崎八幡宮は、応神天皇・神功皇后等がまつってあり、伊勢神宮のような荘厳な神殿のつくりです。重要文化財の表門は江戸時代の膳所城南大手門を移築したもので、風格があり重厚な雰囲気が漂います。軒丸瓦や鬼瓦には膳所城当主だった本多家の家紋「右はなれ立葵」などが見られます。神社を守っている大神家は42代続き、いまもなお奉仕しておられます。

3つの道標

 矢橋道と芦浦道が交差する辻には三基の道標があります。道標には「山田あしうら道」「あなむら道」「蓮如上人御旧跡かねかもり」と刻まれており、山田方面と芦浦・穴村・金森(守山市)から守山宿へ向かう道しるべです。

路地を歩くと静かな趣のある道が今も残る

遊女梅川  再び、矢橋道を港跡方向に歩くと、浜街道との交差点に「ふれあいの塔」があります。塔には赤い線が刻まれていて、明治29年の洪水で3.7mまで浸水したことが標されています。
 路地をしばらく歩くと、遊女梅川の墓と伝えられる清浄寺があります。ゴツゴツした石の感じではなく、卵を逆さにしたようななんとも小さいお墓です。人形浄瑠璃や歌舞伎が催されるときは、関係者がお参りされることもあるそうで、11月6日には、235回忌の法要が行われました。
 その昔、矢橋の名産として柿もありました。石山から馳せ参じた世尊院法印という僧侶が、徳川家康に柿を献上し、その柿が甘くおいしかったことに家康が感動したことから「法印柿」と呼ばれ、矢橋の名産になったといわれています。家康に献上した柿の木がどれだったのか、今はもう定かではありません。
 路地を歩き、重要文化財である石津寺に立ち寄りました。最澄が創建し、現在の本堂は足利義詮が再建したと伝えられています。県内ではこちらが唯一だという、寄棟造の本瓦葺です。石津寺もまた、歴史の重みを感じますが、門や塀もなく、日常の生活の中にこつ然と本堂だけが現れたような不思議な感じがしました。

急がば回れ

矢橋街道  矢橋道は、草津本陣界隈とはまた違った歴史のにおいを感じることができます。人や物資を舟で運んでいたころに思いをめぐらせ、今日のように雨で舟が出ない日などは、湖上が穏やかになるまで宿で待つという、自然とともに暮らした時代がありました。
 交通が発達し、忙しい現代では考えられない時間の流れがあったのでしょう。「急がば廻れ」の語源になった「武士の矢橋の舟は早くとも急がば廻れ勢田の長橋」はここから生まれました。近道として矢橋から舟で大津まで行き来するより、東海道を歩く方が確実に到着するという、今の私たちの暮らしのなかでも生き続けていることわざです。

「遊女梅川」って?

 近松門左衛門の名作「冥土の飛脚」のモデルとなった大坂淡路町の三度飛脚亀屋の養子忠兵衛は、新町槌屋の遊女梅川と恋仲になり通い詰めた。金に詰まった忠兵衛は三百両の封印切の大罪を犯し、生まれた在所の大和新口村へ手に手を取って欠落(駆落)するが、二人ながらに捕らえられた。
 忠兵衛は、大坂千日前で刑場の露と消え、梅川は江州矢橋の十王堂で、忠兵衛の菩提を弔いつつ五十有余年の懺悔の日々をおくり、ここ浄土宗清浄寺に葬られたと伝えられている。
        (観光ボランティア協会)

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