ゆっくり草津 街道物語
15.賑わいと静けさ ~本陣・東海道②~
明暗わける関ヶ原の将
ここに街道交流館が建ったのは平成11年、この場所には以前、谷口医院という病院がありました。明治26年に開院した谷口医院、中に入って目に飛び込む大きな時計とその側にあった薬を渡すための窓が地元の人たちの記憶に残っています。
さらに進むと常善寺です。関ヶ原に勝利した家康がここに宿陣し、大津城へと向かいました。また、敗れた石田三成が護送される際につながれたといわれる「治部つなぎの松」がありました。秋の「街あかり・華あかり・夢あかり」では、国重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来・木造両脇侍像が公開されるので、ぜひご覧あれ。
常善寺の向かいとなる「京屋」では氷とうどんを扱っています。江戸のころは「京屋久兵衛」という旅籠でした。今も夏になると麻に包んだ氷をバイクで配達する姿を見ることができます。明治 年開業の駒井眼科には、玄関の左側にヴォーリズが設計したといわれる建物がありました。その後、立木神社内に移築され草津青年会議所の事務所として使われていましたが、その建物も今は見ることができません。
白と黒のコントラスト
白壁と黒い杉板のコントラストに思わず眼を奪われる建物は太田酒造。趣きがあります。この酒蔵で造られる酒は草津を代表する名産品の一つ。江戸時代、宿場の役人だった太田氏は代々「亦四郎」を名乗りました。酒造業を始めたのは明治のことです。太田氏の祖先、あの太田道灌の名にちなんだ酒「道灌」は有名ですね。
白壁沿いの路地は山王小路といい、暗渠となっていますが、下に山王川が流れています。この小路と東海道が交差している十字路を良く見てください。少し歪んでいます。これは「筋違い」といい、宿場の防御のため、わざと見通しを悪くしたものです。
太田酒造の向かいには「人馬継立」を行った問屋場がありました。問屋場には人足百人・馬百匹を常備し、次の宿場の守山や石部・大津、矢橋の舟場まで人や物資を運びました。荷物の重量を量り運賃を決めるため、貫目改所も置かれていました。
山王小路を込田公園に向かって歩を進めると右に見えるのが正定寺です。草津宿にあった二つの本陣である七左衛門本陣と九蔵本陣の菩提寺で、ちょんまげのような形の石塔があります。この形は江戸時代の武士の墓石の特徴です。
「あ」と「ん」の猿
東海道に戻り、立木神社に向かうと、すぐに出てくる建物が「八百久」です。江戸時代から「八百屋久兵衛」という雑貨商を営んでいました。ささら戸・店のつくり、坪庭などなつかしく趣のあるお店で、昭和3年の建物は国の登録文化財にも指定されています。近辺には連子窓・虫子窓や見越しの松がある家なども見られ、道行く人の目も楽しませてくれます。
八百久の横の路地に入ってみましょう。日吉神社です。軒先の瓦には「あ」と「ん」の形相の猿がのっかっていますよ。傍には和宮降嫁の折にここに移されたという山王地蔵尊が地元の人々によってまつられています。こうして案内されないと見つけられないくらいの小さな神社とお地蔵さまです。路地の楽しみ方ですね。
さらに立木神社に向かって歩きます。万善呉服店は江戸から続く呉服屋です。「和服と言ったら万善」と言われたぐらい草津では名の知られた呉服屋でした。向かいには野村屋がありました。古い看板が印象的だった野村屋も江戸から続く旅籠でした。今は建物もなくなってしまい、草津の歴史がまた一つ消えてしまいました。
朱色の太鼓橋 立木神社
交差点を渡るといよいよ立木神社です。伯母川に架かる赤い橋からは「伯母川橋梁礎石」と刻まれた大きな石が見えます。伯母川は「宮川」「志津川」とも呼ばれ、朱色の太鼓橋が架けられ春には川面に映る桜が見事です。うっそうとした木々に囲まれ、静寂の中に建つ立木神社は奈良・春日大社の祭神と同じ「武甕槌命」です。戦の神、旅行の神でもあるので参勤交代のときにもお参りをしたとか。境内にある石造りの道標は徳川5代将軍綱吉の頃に建てられ、県内でも最も古い道標といわれます。
春日大社を目指し、常陸国を出発した鹿島明神がこの地に立ち寄った際、柿の鞭から根が生え見事に成長したとの云われから、御神木は柿の木とされています。また県の指定記念物であるウラジロガシは樹齢300年といわれています。一見、幹が枯れてしまったようですが、よく見ると根元の方からちゃんと新しい芽が出ているのを見つけ、ホッとさせてくれました。
市内6か所で行われるサンヤレ踊りの一つ、矢倉のサンヤレは矢倉市民センター隣のお旅所を出発し、この立木神社に奉納されるものです。矢倉の居住組と呼ばれる人々によって受け継がれる矢倉のサンヤレ踊りは1年おきに奉納されます。
草津を凝縮 込田公園
立木神社から東海道より一本西側の御除け道を、今度は本陣方面へ帰ります。しばらくJRの線路と平行して歩いていると、水路の先にレンガのアーチ橋が掛っているのが見えました。橋の上を通過するJRが対称的な印象を持ちます。こんな小さな発見をできるのも、ゆっくりと路地を歩く楽しみでもあります。
御除け道から商店街へ出る路地にひっそりとしたお堂。蛇の目講本堂です。江戸時代の終わりから昭和初期にかけて行者講が広まり、盛んに行われました。ひっそりとたたずむこちらの蛇の目講本堂では、毎年6月に大峰山へお参りをされています。本堂には役行者と不動明王像が安置されています。
市役所の隣、込田公園に来ました。江戸時代の絵図には込田池という池が描かれています。この込田公園と市役所あたりですから、池としてはかなり大きなものです。市役所側から入る冠木門をくぐると、池や小川が随所に見られ、遊びに夢中になる子どもたちの声が響いています。この池や川をよくご覧ください。実はこれ、萩の玉川・十禅寺川・矢橋の港・街道筋の松など草津の名所を模しているのです。先ほどとは反対の門の傍らに説明看板もあるので読んでみましょう。込田公園、まさに現代と過去を行き来する宿場町の公園です。
鳴らない鐘と忠犬物語
この門から再び、東海道に向かうと真教寺があります。ここに来たら、まず鐘を見てください。お気づきですか、この鐘はコンクリートです。もちろん鳴りません。戦時中、各家庭から金属類を供出したのは有名な話です。お寺の鐘も例外ではなく、真教寺の鐘も供出されました。主人のいなくなった鐘つき堂はバランスが悪いため、コンクリートの鐘が吊るされたわけです。無言のコンクリートの鐘が、私たちの胸に平和の尊さを響かせてくれているようにも思います。
それと境内にひっそりと佇む碑。「忠犬妙雪の碑」です。明治 年、寺に拾われた犬の「しろ」が、寺の火事を知らせ大事に至らなかったことに感謝し、住職が愛犬のために建てたものです。タロにジロ、ハチ公と名犬・忠犬の話は色々とありますが、ここ草津にも忠犬の話があったとは驚きです。
見えなくなったものたち
今回も路地に入り小さな発見の連続でした。でも逆に最近までありながら見れなくなったものもありました。谷口医院や中にあった大きな時計、野村屋の看板、立木神社にあったヴォーリズの建物に込田池…人々の記憶に深く刻まれながら消えていったものたち。見えなくなったものたちが、そこに確かに存在していたことを確認する歩みとなりました。消えてしまった土地や建物の記憶を補ってくれる人々の記憶。そんな記憶もいつかは消えていくのかと思うと、少し切なさもよぎる街道物語でした。
今回も誌面がなくなるようで恨めしい限りです。次回はこの続き、料亭「魚寅楼」あたりから始めることにしましょう。お楽しみに。