カーネーション栽培全盛 京都市場の8割占める
カーネーションの温室栽培
第二次世界大戦によりカーネーション栽培を中止した志津村の青地準ニさんは、戦後に温室での栽培を再開。進駐軍に需要があったといわれています。昭和30(1955)年代は温室栽培農家が急増しました。青地さんが生み出した「青地ピーター」は昭和39(1964)年に名称登録されます。昭和43(1968)年には京都市場の8割を草津のカーネーションが占めた記録が残っています。
第二次世界大戦によりカーネーション栽培を中止した志津村の青地準ニさんは、戦後に温室での栽培を再開。進駐軍に需要があったといわれています。昭和30(1955)年代は温室栽培農家が急増しました。青地さんが生み出した「青地ピーター」は昭和39(1964)年に名称登録されます。昭和43(1968)年には京都市場の8割を草津のカーネーションが占めた記録が残っています。
市制20周年より
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