団体インタビュー
子、孫の代まで続く道だから
静けさと喧騒と
ここは「川原小久保」の交差点。南北には県道(大津湖南幹線)が、東西には市道(下笠下砥山線)が走り、今日もたくさんの車が行き交います。周囲は閑静な住宅街。住宅地の静けさと道路の喧騒、この静と騒の対比がなんとも印象的です。
この辺りは約40年前に開発された住宅街。それまでは大きな池と田畑が広がるのどかな風景だったといいます。開発間もなく移り住んできた伏見さん。「子どもが生まれ、家が手狭になってきて越してきました。ここの将来性を見越して決めましたね。駅まで歩いても15分ぐらい。すでに小中学校はあったし、すぐにスーパーやコンビニ、病院なんかも次々にできて、生活がどんどん便利になっていきました」
同じころ移り住んだ大條さん、「当時は仕事が忙しく、帰宅が深夜になることもしばしば。バスも少なかったので、すぐに車を買いましたね(笑)。定年後はカメラが趣味になり、朝晩、琵琶湖まで撮影に行きました。対岸の比良山系の眺めが美しく、改めてこのまちの良さを感じました」
子や孫の世代まで
人口も便利さも成長を続けてきたまちに問題が持ち上がったのは平成2年のこと。それは大きな県道と市道ができ、ここで交差するとの話でした。道路ができて、便利になることは歓迎ですが、生活者としては「どんな道路になるのか」が大きな問題でした。
やっと開かれた説明会でも一方的な話に終始し、住民の不安は募るばかり。最も不安だったのは県道が高架になり立体交差することでした。
「住宅が高架下になってしまうと日光が遮られたり、騒音や振動に困ったり、雑草が繁り、暗い・汚い・危険というイメージもありました。排気ガスも、より広がったりして健康被害も心配でしたね」と大條さん。
そこで町内会では市や県と話をしていく窓口として道路委員会をつくることにしました。毎年交代する役員では継続的な話ができないし、道路の構造・環境・安全対策など様々な問題に対して地元の意見を取りまとめ、根気よく行政と話を積み重ねていく必要があったのです。当初から委員だったのは大條さん。
「道路委員会での約束事は
①道路の建設自体には反対しない
②住民同士がケンカをしない
の2つだけ。反対や要望する団体ではなく、子や孫の代まで健康にここで暮らせるまちになるよう、行政と一緒に良い道路を造っていきたいという思いが強かったですね」
道路づくりのプロ
一緒に造るといっても、行政は道路づくりのプロ。こちらも知識がないと納得できる道路づくりなんてできません。会議で行政職員が持ってくる道路や交通関係の分厚い本を見つけては自腹で買って勉強したのだとか。
「書籍や資料代だけでも10万円はかかったんじゃないかなぁ。ここで生活していく者として将来を考えると、もう必至でした」
と当時を振り返る大條さん。
道路委員会は幾度も町内での懇談会やアンケートを重ね、大学による環境や健康に関する調査を実施したり、先進地に行って話を聞いたりと活発に動き出しました。行政との協議では厳しい局面もあったのだとか。
こうした努力と苦労が数年続き、ついに平面交差に変更となったのです。それでも騒音・振動・大気汚染の対策として、舗装や歩道の街路樹の選定など、話を詰めていくべき点は次から次へとあって、その後も道路委員会は続けて行政と共に歩んでいます。
自分たちの手で
地元では「行政がここまで納得できる道路をつくってくれたのだから、歩道の維持管理は自分たちの手で」と約20年前にみどり会を設立。月に1回、歩道のゴミ拾いや草引き、樹木の剪定などの作業で汗を流します。
その効果でしょうか。活動を始めた当初はゴミや吸い殻のポイ捨てがいっぱいだったのが、最近では目に見えて減ってきているのだとか。
住民の高齢化もあり、「できる時に、できる人が、できることをする」を合言葉に無理のない範囲でコツコツと活動を続けています。
「散歩中の高齢者や小中学生が『ありがとうございます』なんて声をかけてくれるのが励みになります」と伏見さん。
「これまでの役員さんたちの頑張りや、真摯に耳を傾けてくれた行政の姿勢があったから今の環境ができました。感謝ですね」と大條さん。